経営のホットワードであるSDGsやESGについて記事を書いてきました。これらのキーワードは現代のものですが、歴史を紐解くと思想の源流は近代経済学の父アダム・スミスに見つけることができます。今日はSDGsの源流について考えてみたいと思います。
誤解された近代経済学の父
世界史の授業を取っ手いた人や、大学で経済学や経営学を学んだことがある人は、アダム・スミスの名前を聞いたことがあるかもしれません。「神の見えざる手」のフレーズのほうが聞き覚えがあるかもしれません。この神の見えざる手とは、市場経済においては、それぞれが自らの利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分がされるという考え方です。国富論で語られました。この一冊が、資本主義経済学で幕を開けます。
しかし、アダム・スミスは「神の」と言う言葉は使っていませんし、「見えざる手」と言う表現も一箇所しか使われていません💦 本人の主張が曲解されて、資本主義経済の金科玉条になっているのはアダム・スミス的には複雑な気持ちなのかもしれません。
道徳感情論
アダム・スミスは経済学者とは別の一面がありました。倫理学の先生でもあったのです。「道徳感情論」と言う著書があります。この本の中で、共感こそが社会秩序の基盤だと主張します。共感とは他人の感情や行為の適切さを評価する能力であり、利害対決を超えた判断をくだすには、共感を備えた人が必要だとしました。
国富論と道徳感情論を見比べると、だいぶ趣きが異なって見えます。アダム・スミスを研究している学者さん曰く、「神の見えざる手」ではなく、「社会の見えざる手」がアダム・スミスが主張したかった事ではないかと言うのが定説です。
もう一つの誤解
アダム・スミスは経済成長に関しても後世に影響を与える提言をしています。経済が成長するには、「経済が成長するためには、労働の価値を高める必要があり、そのためには設備投資や資本の蓄積が必要である」。しかし、この言葉も曲解されます。設備投資(モノ)や資本(カネ)の蓄積に焦点が当てられます。本来は「労働の価値を高める」つまりヒトに焦点を当てていたのだと思うのですが。。。アダム・スミス後の世界では、神の見えざる手や金に焦点を当てた方が都合が良かったということなんでしょうが。まあ、その成れの果てがリーマンショックだったのでしょうが。
250年前から予見していた?
近代経済学の父であるアダム・スミスは市場原理の可能性と限界の両方を予見していたように私は考えます。SDGsやESGがホットワードとして関心が集まっている現代の状況を見たら、「だから言ったでしょ」と言うような気がします。