クマ坊の日記

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【Book】忘れてきた花束。 お気にいりの文章の続き

 

忘れてきた花束。 (ほぼ日ブックス)

忘れてきた花束。 (ほぼ日ブックス)

 

 前回、ご紹介した「忘れてきた花束」まだまだ備忘録として残した文章があったので、今日はその続きです。

 

新しく夫婦になる人たちを、周囲は、できるだけ自由にしてやりたいものだと思う。あんまり大きな期待を押しつけちゃいけないと思うのだ。だから、ちょっと逆説的になるけれど、「幸福になる義務はないよ」というようなことをぼくは言う。周囲の人は、よく「幸せになれ」と言うものだけれど、幸福は、なろうとして追いかけたら逃げていくものだ。しかし、前に見える逃げていく幸福は、後ろや、横には、よくいるものだったりする。「あ、これか」と気づくのが幸福なのではないか。祝いも、別れも、相手を自由にしてやれるかどうかが基本。

 

当事者として「決定」に関わった経験が、しだいに身についていって、「決定力」になる。

 

無意識のほうは、簡単にできていて、ことばでの説明がうまくできないことって、ものすごくたくさんあります。無意識でわかっていることを、意識でもわかるまで経験し続けた人が、プロっていうことなのかもしれまない。

 

日本中からいや世界中から、千人の「ともだち」を探すのは簡単になった。ただ、たった一人の「親友」を見つけることについては、昔もいまも、なんにも変わっちゃいない。

 

いっしょにいる人に、「おもしろい」と言われることほど たしかな関係はないのではないか。

 

じぶんの経験の絶対化っていうのが、さまざまなまちがいの元になる。経験は、まず「わたしひとりのもの」だということを胸に刻んでないとあぶないあぶない。

 

「ただしいからやる」を、「たのしいからやる」にずらしていけたら、いろんなことがうまくいきそう。

 

「起承転結」で言えば、「承」やら「転」は、「起」よりはトルクが要らない。必死でがんばる力というのは、「起」で出すものだし、その力を出さないと、こことも頭も鈍ってしまう。だからこそ、若い人であろうが老人であろうが、次々に新たな「起」をつくったほうがいいのではないか。「承・承・承・承」もいいけれど、「起」を足そうよ。

 

真剣そうにしていることと、真剣であることはまったくちがいます。真剣っていうのは、目に見えないものです。内側にあってかたちのないものです。笑顔がすてきで、しかも真剣な人というのが、おとなとしての理想なんじゃないかなぁ。