年末年始に図書館で借りてきた本。糸井重里さんの言葉を収めた本。心地いい言葉、ハッとさせられる文章に溢れている。自分に刺さる文章を読みながら、これが自分の心の状態なのだろうかと思いながら読み進める。読み進めるというか、お風呂につかりながらただただページを巡るだけなんだけど。心に波紋を広げた文章を備忘録として記載しておく。
境界線を気にするんじゃない。そこでなわとびをするんだ
少数であることを気どらない。多数であると思って調子にのらない。考えるべき重要なことは、多さや少なさじゃない
「うまく伝えるのはむつかしい」という場合は、たいていが、とてもおもしろいことである場合が多い。
花が咲くのは、ある日突然のようですが、そうでなく、毎日のように予告編は上映されているんですよね。枝のあちこちに、固いつぼみが、ちゃんと目に見えるような姿でその日を待っています。毎日、注意深く見ていたら、ちいさなちがいを見ることができるのでしょうね。時計の短針の動きのように、つぼみは動いています。ゆっくりだけれど動いているものに、ぼくらの関心は、なかなか向けられません。桜の枝に花が咲くまでの物語を、ていねいに読みとれていないのと同じように、あらゆるものの震えや育ちを、忘れながら、見逃しながら生きています。見る見る成長していく赤ちゃんなんかだと、昨日と今日のちがいがことばにできるほどだったり、何日が見てないうちに、すっかり大きくなっていたり、おもしろいほどの変化があります。でもおとなになった人間というのも、毎年、桜のの老木が芽吹き花を開かせるほどの変化はちゃんとあるものだと思えます。じぶん自身にさえも、気づかれていないような物語が、地球の公転や自転や月の満ち欠けに合わせて、リズムを刻むように進行しているのでしょう。ぼくも、あたなたも、桜の木で子猫です
じぶんが、どうやって勝てるのか、じぶんが、どうやったら生き残れるのか、他の誰でもない自分の価値を、どうやってつくるのか。それを懸命にやるからこそ、なんとかやっていけるわけだよ。紙一重のセーフをなんとか繰り返して、紙一重のアウトになっても砂ぼこりをはたいて、じぶんや、じぶんの守る者たちを生かしていく。そういうものなんだと思う。誰も負けない、傷つかない、誰も泣かないなんてこと、先に考えてどうするんだ。
「ひとり」でいられない人が、「みんな」でいても、しょうがない。「ひとり」でしかいられないのでは、「みんな」となにかすることはむつかしい。
いつも人は、現在にしか関与できないのだ。過去はやりなおしが利かないし、未来は現在を通してしかなんともできない
怒鳴る人は、じぶんに弱みのある人。威張る人は、威張らないと立場がない人。責める人は、じぶんが責められたくない糸。
変わらないと思われていることが、実は変わってもいる。おおぜいが、そのほうが「都合がいい」と思えることは、あんがい、じわじわとだけれど、変わるものなんだ。すぐを急ぐと、逆に、おおぜいの都合がつかなくなる
同じことなら、いつどんな状況でもできる。そういうことを、実力と呼ぶのです。実力があるからこそ、じぶんの実力でできないことを、「いまは、できならかやらない」と言えるわけです。そして、できることを注意深く、真剣に繰り返していると、さらに実力はついていきます。